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『婦人公論』3月号。 [介護・番外編]

最近の記事で 少しだけ触れたが

姫野カオルコ氏が 今月号の 婦人公論 にまた

以前と同様のカテゴライズで 登場していたので
つい スーパーの雑誌コーナーで買ってしまった

DSC_1423.JPG

今更ですが 写真は南 果歩さんです。


(本屋で買えばいいのに・・・図書カード使いたかったのに・・・)

(そんな内輪の事情どうだっていいよ)

特集内容は    「面倒な親との関係に折り合いをつけたい」  イタタタタ[あせあせ(飛び散る汗)]


最も折り合いをつける方法は ものすごく一般的で

「相手のことを思いやりましょうね、ちゃんちゃん♪」 ・・・いや だから

それができたらこのテーマは無いでしょう。

相談内容の壮絶さに比べて落としどころの柔らかさ。

読者の体験手記は
「実家と縁を切りました」 というものだ。


特集の本編よりもむしろ

スビリチュアルカウンセラーにして 声楽家 江原啓之氏の 連載の方に
なるほど、 と感じ入るものアリ。

もちろん 姫野カオルコ氏のエッセイも期待を裏切らない
(なおかつ大半の読者の期待は きちんと裏切っている)

ワタシだけが別に特別じゃない」 的な 

例えるなら チタン製の 大鉈で 後ろから
気づくまもなくバッサリやられるような 

(ぜんっぜん わかりにくい例えであった)

実両親との複雑な関係を抱え、家を出て社会人となってからも実家の両親の介護に
大変な日々を送ったであろうコトは想像に難くないのですが

あくまで「自分はヒトと比べても大変じゃなかった」 と言い切る

今回号の タイトルにあるとおり
『面倒な親との関係』 がメインテーマなのですが


※本編抜粋

『世間も子供も、親というものに期待しすぎているのではないかと思う』 (小タイトル)
※本文抜粋

『・・・私の親しい人でも、「親に言葉が通じない、よかれと思ってやったことが全て裏目に出る」 と
嘆いている方がいます。(略)・・・・

でも、通じないものは仕方が無い、相手に変って欲しいと願うあなた自身だって、自分を変えることは難しいでしょう。もし気持が通じないというなら、今までも通じていなかったのではないでしょうか。
そうではなくて本当に急に通じなくなったというのなら、
認知性などの疑いがありますから医学的な地位書を考えて見る事も必要です。

(中略)・・・

それ以外は「通じない相性」と 割り切ったほうがいい。気持が通じないから辛いというのは
親を大変な人格者であるように期待しているということで、
かえって相手に対して酷ではないでしょうか。(以下略)』

DSC_1424.JPG


その数ページ後に 「実家と縁を切り・・・」 
許せない親達に翻弄されたという読者の赤裸々な手記が続く。

そうして 後の方の連載エッセーに 
江原啓之氏 の 

「全て(毒)母のせいにするのは 問題のすり替え」 という小タイトルと

「許せないという気持こそ実は依存心の表れ」 

という 痛いお告げの一言[雷]が。

あえておのおののポテンシャルを投げっぱなしにしているところが
この雑誌が 長い間支持されている所以かもしんない、などと 思ってみる。

しかしこれまた 確かにややこしい問題に他ならいので
姫野カオルコ氏が 声高に語らないのも 解らないでもないというか

介護する立場になった途端に親との関係の悪化を見てしまった場合の
(あるいはそれ以前からの確執があったとして)

至る道筋の脈絡とか
身の置き場の微妙さとか 
子供としての アイデンティティの正当性の危うきこと など


正直 わが身に置き換えれば 
自問自答は 数限りなくあったし
今もある

あくまでワタシ自身のことだ

(※春は自省の季節なのだ、とあらかじめ断っておく。)




ものすごく意味の無い仮定法かもしれないが

もしも 母が今もって介護を必要としないヒトであったなら
騙し騙し、フツーに
平均点は獲得可能な「良い」関係を築くこともできただろう

騙し騙し、という言い方をするが
大概の親も子も騙しあっているというのが私の持論ではある。

(別に今だって うわべは大変良い 母と子に
見えていないことも無いよ)

「ウチの母親は変ってるから」 で済ませられたかもしれない
事ども。
そもそも誰にも愚痴ることなく墓場まで持っていこう、いや
自分を騙しておきたかった諸々など

ワタシは実に、ついココ数年までは
自分の親の悪口など 他所で口に出したこともない

聞こえがいいかもしれないが
(そして今となっては「え゛ー、信じらんなぁい」 かもしれないが)

断っておくと 自慢などではなく

口に出すことはおろか心の中で 親を嫌うことすら
しなかったし できなかったまでのこと
それは親が怖いとかではなく (まぁ、コワイ親だったが)

自分で勝手に妄想していた
なにかムチャ振りに幸せな「家族像」があったからなのかもしれない

父、母、そしてワタシのたった3人の家族だから
何かあったらお互いを庇い合い 守りあう
そういう存在であるべきだ、と

そういう存在で無くなった共同体に対して
神様とか 何か大いなる存在が 「バチ」 を与えるものだと
(罰、でないところが なにか子供です)

高校生の頃まで ([exclamation])
ベッドに入って まず全ての神様と仏様に

家族と そして優しい叔父と叔母
そしてワタシの この全員だけは (だけ、って・・・)
なにとぞ お守り下さい

そういうお祈りを3遍やらかさないと眠れない・青春だったのだ(笑)
なにやら一歩手前


家族が仲良く美しくあらねばならない
思い込んでいたのは自分だけで
存外 母も父もそうではなく
ワタシばかりに気を遣わせることに何かヒジョーに裏切られた気持になり 

大人になって我慢がならなくなった挙げ句 今があるのかも
(同時に大きく解放されてしまったがな)

せーしゅん(割と長かったが) のとーじ[ぴかぴか(新しい)]
世間と云うものはどうして ワタシの思ったとおりに
美しく調和してくれないのだろうとしまいに

自分の身の上がちょっと不幸なものに思われてならなくなり
そんな境遇にある自分と鏡1枚で お互いに仲良くキャプションしながら
ずっと 実は一人二役でやってきたのかもしれないと

(以下は鏡の中の自分とのモノローグに過ぎません)

で、なんやかやあって それぞれがそれぞれの立場で
やらかして

帰れない言い訳を探している自分が
何処かに居るのかもしれないとうすうす 感じている自分

あえて何も言わなかった 父。

リアル。

子供の学校こと
旦那のこと 自分の将来のこと

全て投げ打って 母親に尽くすことのできない自分は

強固なバリケードと 頑健な理論武装が必要だった
そこに
近頃流行りのモーレツな母親像が たまたま 自分のケースにそっくり当てはまったため
結局 自ら介護をしない言い訳に
母との関係が悪いことを自分への免罪符として来たのかも知れないと

かたや 矛盾するかもしれないが
母親が一言でも ワタシを認める言葉を掛けてくれた事があったなら
全てを投げ打つかもしれない自分がいたかというと

それは確かに居たのだが
いずれ茨の道だったように思う

とどのつまり そこでは投げたボールは自分に還って来る

親に拘泥すれば 自分の家族を放るしかない
ということもあるだろう 


ところで
母親としては 『世間が白い目で見るようなこと』 さえ ワタシがしなければ
異存は無いらしい
いつの間に今の生活になじんでいる


あとは 遠くから熱心に通ってくる娘と孫
ついでに優しい夫  という 家族像があれば イイらしい

有り難いことに 介護は今
行政と 施設が代わる代わるで 親身にやって下さっている
ワタシは 下の世話もしなければ
しわだらけの 母親の手を取って 真夜中に
「お寂しいですか~」 とさすってあげることもない

(それが「気持が悪い」 と母親は言っている)

(1度車椅子から母親を立たせる時に 両手を握ったら
鳥肌が立って 言い訳に苦労したことがある) ひでー。

二月に一度 届けられる施設の会報

多色刷りにプリントアウトされた
お花模様の 「しせつのみなさん。」 というチラシに
笑顔で映る母親は 頼りなげで孤独で
子供のようで 切なくなる。

「こんなのは ウソだ。」と
気持の何処かで自分が怒っていて
そのことがたまらなく後ろめたくなる

ワタシは何と戦ってきたのか

結局 自分勝手に作った 家族像の檻の中で
『報われない愛』 みたいなものに拘泥している限りワタシは進めないのだろう と思う

いったいどれが 「美談」 であるかは 置いといてだ。

報われない、といえば聞こえはいいな

単純に ちょっとは褒めてもらいたかったのにぃ という ちっさなワタシが
むくれたまま そこに居るだけなのだ

褒めてもらいたかったなら 今は息子を褒めてやればいい
でもどこか
ワタシの息子との関わり方は
その辺りが怪しくてぎこちない(笑)



今回の 『婦人公論』 に手記や体験談を寄せた多くのヒトの
それぞれの 記述の中に
ばらばらとした自分を 見ている 
そう感じるのは ワタシだけではないと思う。

1人っ子で 親と折り合いをつけるのが下手で
そこに親の老い という問題が被さる
プロトタイプが自分だという気がしていたが
大勢、  居るのだ。

では 
似たようなカテゴライズのヒトは 大勢居るが
同じ立場で共感しあえるかと云えば

あくまで 独りなのだ。

誰もがそうなのだと思う  
抱える問題は 介護や老親など器が良く似ているから
表面的に
「共感を得た」 という錯覚に陥るに過ぎないのだろうし
それが 必要なときもある

遠距離介護も 母との折り合いも  
ワタシと云う極めて卑小なミクロコスモスの中で起こっている
日常的な出来事に過ぎない


それはワタシだけが抱える日常である
時にエゴイスティックでグロテスクだ 
(俯瞰で見れば可笑しい)

不特定多数のヒトに そういう愚痴を吐き散らす不遜なブログである(笑)
だけど 毒母っていうのは よそう

あの母は あーいうキャラクターだ 
ゆる(くない)キャラだ  (・・・そしてネタだ。) 


ウチの息子も 1人息子なので近頃は

実家の母とワタシの息子と わけのわからん オーバーレイが起こって
切なくなるときがある
いずれ オマエがワタシを嫌うことがあったなら
表面上でイイ 優しくしておくれ

大真面目にそう思う。 春近し。


(※実家は大雪。春休み帰省しんどー)



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大雪の日の子供たち。「かまくら」 だって。 


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獏

獏は自分が思春期だった頃の父に対して
様々色々と思うところがありますが
今となっては当時の父に似ている自分を発見して
愕然とすることがあります。。。
いいところが似ていれば
何の躊躇もしないのですが・・・(@@;)
似たくないところが似るものです。。。(哀)

by 獏 (2014-03-13 12:56) 

ryang

大人になる、ってたぶん、それまで当たり前だと思っていた
環境(実家)から出て、世間一般とのズレを自覚し、
そのズレからくる「ちょっと変わってる考え方」のルーツが親
であることを認識し、摩擦に苦しむんだろうなぁと思います。
その摩擦を乗り越えて自分が変わって「大人になる」と、
親の言うことや考えをを「残念だ」と思い、引いてしまうではないか
とも思います。自分を守ることに必死になって摩擦に耐えられず、
乗り越えられなかったら、自分が変わることがなく、
親や世間が悪い。と暴れる人になるのかも。
自分が成長しなかった子供(続柄的に)は、それを隠すために
親や世間を攻撃して、自分が成長していないことがバレないよう
必死に取り繕っている状態になるのかもしれない。と
思います。
生きている母の亡霊に取り付かれないよう、自分を強く持ち、
ある程度の諦めがあります。ドライで不肖な娘ですみませ~ん。
とか思いつつ、母が蒔いた種、私が蒔いた種。
残らず刈取ってやる(だけど骨は拾ってくれて良い、
母より長生きはいろいろ限界で持たない…)とか思います。
by ryang (2014-03-13 20:09) 

cassis


●獏 さま ありがとうございます^-^。

仕草や声が「似てきたなぁ」というのと
息子や周囲との関わり方か「げ、似てきた」というのと。
遺伝子のループからは抜けられないのかと
思ってみたり、生き物だから仕方ないか~とも。
どうしてか、イヤだったときの親、を踏襲してしまうんです。
通過儀礼、だろうかと思ってみる。・・・
未分化の細胞は母細胞からなるべく逆サイドへ
進化したがるという話もありますが

ホントは嫌われたくないんです~息子には。(トホホ)


●ryang さま ありがとうございます^-^。

ワタシはどうも長女気質? というのか
(関係ないな)
自分がどうにかなってそれを嘆き悲しむ母親が
周囲に慰められるの図、というのが浮かんでしまうと
それだけでもう狂おしいくらいの焦燥感です。
アリえねー、ともんどりうってしまうくらい。
思えば世間に対して暴れる1歩寸前まで行ってた
ような気がします。何か違う、というのはやはり
世間が違っていて
両親の育んでくれたワタシという結果は正しい、みたいな。

早くに気づいてから外に出て行ったツケモノさんが羨ましい反面、
磨耗率ハンパ無いであろうことも察するに余りあります。
八割くらいの空気圧で張り詰めぬようどうか
長い距離を走ってください。
あ、磨り減ったタイヤの溝はワタシが彫刻刀で刻んであげます。(そこまでしてか)



by cassis (2014-03-13 22:26) 

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