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殺してはいけない理由。 [杞憂]



そんなことを考えてみたのには 当然理由があるのだが。





縁もゆかりも無いひとを 偶々 未必の事態でチャンスが生じたときに
殺めてしまった、というヒトを形容する際
「衝動殺人」 という言葉はもはや死語である、というくらい
メディアが様々な刺激的な呼称を作っております。
だがしかし


結局のところ
「どうして殺したのか」 という問いに対しててそれこそ
ナタで叩き割りたいくらい 「シンプルにしてクソな答え」 が返ってくるとしたら。


(クソ、は良く無いですね)



「ヒトを殺してみたかったから」
「殺したらどんな感じなのか知りたかったから」


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「人を見たら泥棒と思え。」 という頃はすでに古きよき時代で

今は、
「他人を見たら、殺人者と思え。」 という時代に入ったのかもしれない。



コチラに向って必死の形相で駆けて来るヤツがいたら
手を差し伸べたらイケナイ


「まずアンタも走ってその場から去れ」


そう子供に教えなくてはならない時代になったということか。


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5月の風がそよ吹く脳天気に気持の良い晴れた日

「あ、ところで、人を殺してみたらどんな気持になるのだろう」 と
あっけらかんと未知な「衝動」にかられ

(翻訳モノの世界でもこのテの有名なキャストがいる)



 1.躊躇より欲望が大きくなればアッサリと実行する。
 2.初めから躊躇をパスして実行する。
 3.躊躇と均衡しているので暫定的にこれまで引きずっている潜在的予備軍。

…の、いずれかのパターンを踏むと仮定して。




どうして人を殺してはいけないのか。
実は多くの有識者、と呼ばれる人が
コレをストレートに訊かれて 意外と答えに窮するらしい


philosophical ?  biological ?  あるいは
宗教学的見地?


回答の一例を引くと以下のような感じが模範例となっていた


『誰もが命を奪われたくない。
絶対殺されたくないと思うのであれば、絶対人を殺していけないのは当然。』

まぁ そりゃそうだが。
あまりに身もフタも無い。


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殺されたくない他者と殺したいと思う自分との間にそもそも
因果関係のロジックを築けないところに問題の本質があるのだから


誰も、の中に自分の存在も在るのだ、と思えるくらい
他者とのシンパシーを感じる力が勝るならば この「病理」は起こらない。



そう云えば、一時期沢山の刊行物が出た プロファイリングについて
海外の翻訳物には social pathology(社会病理) という表現が多くされていた。

「サイコパス」 ではなく
「ソシオパス」。


便利だけどなんというか十把一からげの臭いもする。
(説明のつかない事態に於いては
「世の中が悪いんだぉ」 と嗤う 「モナー」 の画像を思い描くのもよろし)



大橋 薫 先生のシンパがいたらすみませんが
ズッパリ アゲてるサイトがありました。
http://www.asahi-net.or.jp/~uv3k-kmgi/byori.html
ご参考は自己責任にて。


真剣に向き合ってもワタシのように「斜め読み」 でも、きっとどこかでパラドクスに陥ります。


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(※ さて、要はワタシも、ソシオパスはよく判らないが
サイコパスなんてもっと判らんものが
勝手に色んなジャンルでもてはやされているのがつまらないので

あえてそりゃ「ソシオパス」だわ~とも云わず
「病理」と、してみた。 ※あくまで当社比です。)




「ヒトを殺したらどうなるだろう」 は


「ヒトを殺した後の自分は どんな風にその事実を前にして感じるのだろう」
という感情と近しい、と仮定した場合。
「ヒトを殺した」 自分の前に 等しく投げ出される命題は



ヒト=他人、に理不尽に殺された「相手の無念や懊悩」



一方 「神の目線」で見る 何の因果関係も無いヒトに一方的に殺されるヒトの理不尽
という
「形骸化した概念」 の2つが在る、として


この理不尽の根本を成す要素を考えたとき
私たちが何とか納得できる落し所だと感じるモノは
地震や竜巻など、どうにも抵抗の仕様がない自然相手に感じる


手を尽くしても尽くしようが無い、という深い無力感と等しいものではないか。


有史以前よりヒトもこれら圧倒的強大な力、に只、翻弄され
どうしようもないことに対する諦念、という概念を手に入れた。


今とは比較にならないくらい、沢山の人がこの理不尽の前に淘汰されていったことだろう
抗おうにも千変万化、一瞬たりとヒトを無慈悲に傷つけたその表情で
怒りに挙げた拳のやり場になってくれることはないだろう


圧倒的に強大な力 = 「神」という概念を作り畏怖の象徴となして
そこに信仰が生まれた、と仮定して


自然は理不尽である
ヒトではない = 感情を持たない
同時に圧倒的に絶大な恩恵を与えるからそれは
哲学的な意味に於いて 普遍的叡智である



叡智はそれが神の手によるものであれば
常に相手にとって理不尽なタイミングで・内容で・訪れるものでなければならない。
(しかも結果が最大限可逆性に富んで尚且つナンの示唆も無い)
(書いててムカつくくらいそれが理不尽)




この理不尽を他人に与えることができたとしたなら、

神の領域に近づく = 神を理解する = 自己も他者も無い普遍的肯定感
を得られるかもしれない、というロジックに
ワタシ的には 容易に至ることが出来たワケです。



理不尽は残酷である
理不尽は偉大であるそして常に「理不尽」。


理不尽は知なり、という ロジックを仮にココで1つ、建ててみる。


さて、上記のような衝動について
普遍的に誰のDNAにも刻まれているのじゃないかしら、と実は考えている。

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長きに渡り1つの条件に限って虐げられたマウスは、
その原因を作る行動を次世代から止める、ということを
どこかで訊いた気がします。

深く遺伝子に沈んでいる 惧(おそ)れと 羨望

(と仮定して)(しつこいが)




ところでそんな「衝動」に従ってスーパーナチュラルに周囲のヒトを危めて回るのでは
エラいことです
たった独りでは明日をも知れない時代だってあるのだし
今ほど繁栄を見ない頃にはヒトという種族の存亡にかかる事態に違いないから

ここで
「ルール」が必要になる。


命は守られねばならない・そのために必要となれば 「他者の存在を失くしてはならない」 と。


今日は太陽が眩しいから、ちょっと人でも殺してみたくなった。

月曜日は憂鬱だから、誰かれ構わず銃を撃ちたくなった。




比較的年齢の若い人達が 生物学的にも未熟な時期により多くの知識を
あたかもデイスポーザーの如く取捨選択せず取り入れるそんな時期にひょいと顔を出す
「あいさつ」のように日常的な欲望は
実は非常にbiologicalにして根源・普遍的なものではなかろうかと
すなはち


ルールと道徳という知恵に上書きされ修正され閉じられた遺伝情報の
極・普遍的な
暴発ではないか、と。



而して


それらは若者だけの衝動なのか、と云えばさにあらず
成熟したヒトにも 魔のさす時は訪れる。



あたかも絵に描いたように幸せなフレームに収まっている自分が
今、この時を手放す為に何をなすべきか、と考えるその瞬間、である。


どうして 「誰もがうらやむ生活」 をしている自分が
満ち足りない理由など無く自身に関わる全ての事柄が順調に動いている今、この時
に限り


何故、 「突然全てを破壊したい」 衝動に捕らわれるのか。


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大人になれば

「鬱憤が溜まっていた。誰でも良かった。」 と体裁を繕うことはできるけれど
結局



相手の存在を消去した瞬間の神の目線、への憧憬

このはるか子孫の時代に刻まれた遺伝子の暴発ではないか




無茶な仮定を踏まえた上で
そのような状況に陥った人にとっては 非常にシンプルかつ絶望的な結論を
導いてみよう
すなはち



人を殺したところで、「神」にはなれない




どころか
神の目線を借りることすら出来ない  ということだ。




真に神の目線に近いところに居るのは
「今まさに命をとられようとする」 側のヒトである。



単純に想像すれば 判る。


仮に



「お前に

(※あたかも全能の神がするかの如く) 


死という恐怖を与えよう」


と云う 「殺人者」 をキャストしてみよう




どんなに「死の恐怖」について語り 且つ他人に味わわせるぞ、と脅そうと



所詮 「殺され」る側、の立場を想像するのは殺人者の夢想であり
実に勝手お粗末かつ幼稚なマスターベーションに他ならない。



あるいは

他人の首にナイフを入れる瞬間の高揚感、などというものは
未熟な想像の範囲から出られない子供の安い「御伽噺」に過ぎない。
彼(=殺人者)は 「殺人者」 という結果物に過ぎず


「死の恐怖」 などとは無縁な者であり

死を語ることの赦される存在( があるならば) の 


足元にも及ばず 近づく術すらない。 逆立ちしても及ばない。




真にその世界を前にしたであろう被害者には既にして語る口も生体反応も
遺されては居ないのだから
かつて生きていた形骸を前にして
唾を吐いてみたところで  真逆の場所で遠吠えをしている 戯画に過ぎない


殺される側としてこの理不尽を一言で表した場合もっと判り易い。
つまり



「理不尽に殺された経験」 の
「一度も無い奴 」に  (当たり前だが)


「殺されたくない」




という非常に 原初的な欲求である。

(まぁ、「こんなヒトにだったら殺されてもイイ」、って人物像もそうそう無いとは思うけど)



{死にそうになったヒト」の恐怖と
「死の恐怖」 とは 天と地ほどの落差があって それは永遠に埋められない。


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神の目、になりたくなったら 
深呼吸して一度、このことについて思いを馳せてみたらイイと思います。



追い求めても得られない真理、について暴走した結果が

カルトであったりテロであったりするのだと思うが



これら 1ビットも成果物のない虚しい自慰行為を
実行する前に 一度でも

どうか被害者側としての自身をシュミレーションしてみて欲しい。



こんな 理不尽 は無い、という 圧倒的な「怒り」 に
(それは満足した、という妄想に一時的に浸っても結果的に裏切られる側への哀切も含む)

きっと 駆られる。



他人の命をどうこうできるほどに 私達は





高度に洗練され 淘汰された生き物では あり得ないのだ。







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