囲碁と将棋の違いをアタシが観ると(2) [つれづれ将棋]
囲碁の第36期 棋聖決定七番勝負の中継の様子などを(現在4局目まで)なんとなく毎回見てます。
実家には碁盤が置いてあって、亡くなった叔父が集めていたものが三つあるうちの一つ。
やるヒトはだれもおらず、床の間の物置台、として大変不本意な第二の人生を送っています。
母の兄、晩年のアルコール中毒で逝った叔父が残したもの。大概使えないガラクタばかりでしたが、中でも出色の使えないモノだと思います。一人っ子のアタシの一人息子、は将棋、をやってるんだっちゅーに
・・・・亡くなった人の間の悪さを責めるワケではありませんが。
リサイクル精神にのっとって、碁盤の上三センチを削って枡目を引きなおす → ダメ。第一目の大きさが違う。
しつこいようですが、「囲碁・将棋」なんてひとくくりされちゃったりするのに、これっぽっちもリンクする箇所がありませんねぇ。・・・
将棋は、駒の一つ一つにそれぞれの性格を持っています。動き方も違うし、駒の価値、も違う。
だから当然、それぞれの駒が、キャラ化し易いという特性も持っているようです。
「・・・銀が、銀が泣いとぉるっ・・・・」 坂田三吉の名台詞です。映画にもなるし、人間ドラマとして描きやすいのかもしれません。演歌の世界です。あるいは浪花節。
『肩で風切る王将よりも 俺は持ちたい 歩の心♪』・・・日本人的心です。
囲碁だとちょっとこうはいきづらいです。
「白5のツギが泣いている」
「俺は持ちたい 黒4のハネ出しのココロ♪」・・・
ピンポイント過ぎて感傷に響きづらいです。石、という特性上、無個性かつ集団としてのシステマチックな動きを要求されるため、下町の人間ドラマ、というよりは某大国、のマス・ゲームあるいは革命の成ったプラハの春、的な群集のどよめきと歓声。あるいは宇宙に散らばる星星が作る銀河・・・・(そこまでは)
そんなことをコタツに寝転がりながら旦那にとうとうとおもむくまま語りましたら、
「・・・カーサンて、ヒマにしとくとロクなことを考えないねぇ。」
というありがたいコメントをもらいました。
いちがぽーーんとさけた。
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